時として、時の時たる所以。

社会に出てから約20年。いろんな仕事をしてきたが、三ヶ月前に仕事を変え、ほぼ10年ぶりに週休2日となった。これでいろいろやりたかったことができるぞと喜んだのも束の間、あまりにも速く過ぎてしまう2日間に、時間が流れるスピードがもう物理的に変わってしまったのではないかと思ってしまう。

基本早起きなので、休日でも6時くらいに起きてしまう。煙草を吸いながら本を読んだり、メールやTwitterを確認しているともう8時だ。仕事に出かける彼女が起きてくる。準備して出かけるのを見送るともう10時。簡単に食事を作って、音楽なんか聞いているともう昼だ。そこから出かける。例えば喫茶店に籠って仕事のアイデアを考えたりブログを書いたりしているともう4時だ。今度は夕飯の買い出しに行き、米を炊き、少し準備してひと息つくと6時前。

12時間が経過しているのだが、本来12時間あったらそうとうな事ができるはずだ。だけどもう夜にさしかかっている。あきらかに仕事中や、友人たちと遊び、または飲みにいっているときとは時間の経過が違う。この、過ぎた12時間の精神状態は完全に自由で、細々とした雑事を片付けてはいるが急いでいないし、どこで予定を変更してもいい自由を有している。つまりは何事にも束縛されない「素の自分」が上記のように過ごしたとすれば、たったこれだけのことしかできないのだ。

逆に週休1日の時は、もっと多くのことをこなしていたように思う。スケジュールがフリーの状態であっても、上に書いた1日の過ごし方の中にさらに2つや3つのトピックが追加されているだろう。

つまりは、今の生活環境における自分の「基礎部分」は以前の週休1日の時とは全く別のものに成り代わっている。同じように自転車を漕いで喫茶店に行くにしても、知らない間に時間の開きがでているのだろう。たった10分の差、その積み重ねが、「まだ3時か」と「もう4時なのか」の結果を生む。少し寄り道したことによるロスかも知れない。自転車を止めて景色を写真に収めているからかもしれない。ただ、自然に振舞っている時の時間経過は速く過ぎてしまうという事実が確認できるだけだ。時間がもったいないから今日一日は巻きでいくぜ!と宣言してそういうモードに「基礎部分」を変更しなければ、時間の経過を歪めることができない。

はたしてどちらの自分で過ごすことが本当の自分の人生なのか、などという青臭いことをつらつらと思ってしまうのは、保坂和志「途方に暮れて、人生論」を読んでいるからにほかならない。

今日のBGMはトム・ウェイツ「TIME」の美しい調べをどうぞ。時間の流れはゆったり、まったりと。
http://www.youtube.com/watch?v=40FjQH3Xw0M&feature=youtube_gdata_player

↓PLEASE CLICK ME!!
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
人気ブログランキングへ