人とつながる表現教室

ふだん、言葉をつくして心から伝えようと努力しても、なかなか伝わらないし理解してもらえない。気持ちのはいってない単なる正論にならないように細心の注意をしながら、なんとか、相手にわかってもらおうとしても、その努力はむくわれず徒労に終わってしまう。人と接する限り、その徒労は何度でも起き、そのたびに悔しいまたは悲しい思いにとらわれる。どうしてわかってもらえないんだろう?そんな疑問符が残るだけだ。

山田ズーニーの本を読むと、こころがフラットになる。たいていは心がささくれ立って嫌な自分を感じている時に、風邪っぽいときに薬を飲むような感じでページをめくることが多い。鴻上尚史鷲田清一のエッセイなんかと同じ手触り。やさしくなりたい、そう願いながら丹念に費やされた言葉に接していくと、いつの間にか、こころの波長が山田ズーニーの文章にフィットしてくる。そのまま読んでいさえすれば、ささくれ立った部分がトリートメントされて、なめらかになっていく感じだ。

久しぶりにこの本を手に取ったのは、仕事がうまくいっていないからだ。上司の考え方、行動に対しての疑問を伝えても理解を得られず、コミュニケーションが浅いレベルで留まってしまって、このまま意見の違いをごまかしながらスルーしてても、仕事において最上の結果が出ないだろうというあせりもある。

そしてこんな一文にぶつかる。

「・・・ところが、自分のやってることがあまりにも理解されないと、いつのまにか、<わかってくれ>がゴールになってしまっている。相手と自分の、自分と会社の、ゴールがずれてしまうと、コミュニケーションは迷走する。」

その通りだ。それに続く一文。

「そこをプロじゃないと否定するもいいし、厳しくゴール設定を確認し、押し付けるのもいいだろう。でも、へりきったお腹では、山に登れない。みんな理解に飢えている。ペコペコだ。そこに、おにぎりひとつ、栄養を与え合って、さあ、頂上を目指そうか、という行き方もある。だから、仕事や、日常や、さまざまな場面で、相手に対する理解を、まず、きちんと言葉にして伝えるということは、多大な可能性を持っていると私は思う。それがあって、心の空腹が満たされてこそ、その先に、相手の持つ、認識力や判断力、コミュニケーション能力は生きてくる。」

どうせ働くなら、人とかかわるなら、こういう姿勢で取り組んだほうがいいよなあと襟を正してもらうとともに、このコミュニーケーションのあり方を多くの人が理解してくれたらいいのになと、甘い考えかもしれないけれど、つい願ってしまうのです。


BGMは、フラットをキーワードに、PUPAのアルバムより高橋幸宏のボーカル曲を。早起きした朝、ちょっと早く家を出て、出勤まえにどこかでモーニングでもたべようかな的な感じです。
「CREAKS」 PUPA