「わたしたちの夏」福間健二


東京方面に出るときはなるべく用事をまとめるようにしていたが(電車賃が往復2000円かかるからね。単行本買えるもん。)最近のスケジューリングがうまくいかないので、昨日は映画を見るためだけに出向いた。

カバンには詩集を2冊突っ込んで(何と詩集を持っていくと割引になるのです。こういう配慮が素晴らしい。)まずは神田に行き、友人がやっている自家焙煎の喫茶店(カフェ ヴィオット。レトロ調でいい雰囲気でっせ。)にいき、何杯もコーヒーを飲む。

ここは先代からの流れでおかわりが1杯100円なのですよ。値段上げたら?と何度も言ったが、今までこれできたし、親父についているお客さんがたくさんいるから値段はあげらないよと言うばかり。彼にとっては値段云々よりも、焙煎技術やコーヒーを淹れる腕を少しでも上げて、お客さんを喜ばせたいという気持ちがあるみたい。そして新宿へ。

営業職だった頃は日頃のストレスを酒と買い物で紛らわせていたから(今だからそう思う。当時はストレスかどうかも気づいていなかった。でもって最終的に精神科のドアを開くハメになったのだ。今は治ったけど。)渋谷や新宿にいくとその時のモードになってしまい、物欲がムクムクと起きてくる。

なまじっか自由な時間があると尚更で、強く欲しいものがあるわけでもないのにデパートをほっつき歩いては試着を繰り返したり、電車に乗る前に本を買ってきたにもかかわらずまた紀伊国屋に入ったりしてしまう。結局はグリーンの革ジャンと(SALEで50%オフ!)シリ・ハストヴェット「震えのある女」を購入。

ファッションはイメージ先行で、あぁ、あのグリーンの革ジャンを着て街を歩いたらさぞかし楽しいだろう、今までの自分が2割増になるだろうさ、という幻想を瞬時に肯定してしまうのですね。どう、おいら?上着かえただけでいい感じじゃん?みたいな。それは誰に見せるわけでもなく、特定の個人にアピールするわけでもないのだけれど…

でも例えばフィガロジャポンなんかよく読むんだけど、挿入されたブランドの広告が美しくて、ファッション写真だけで展覧会とかやらないかなぁ、なんて思う。ファッションが妄想や幻想を原動力にして成り立つのだとすれば、あの完璧に構築された広告写真はある意味遺影のようなものではなかろうか。広告の人物に無意識に自分を重ね合わせ、その完璧な世界に固定されてパシャりとね。最期に相応しい写真として。

そしてなつかしの東中野へ。高円寺・阿佐ヶ谷で10年以上住んでいたのでこの辺りは庭みたいなもんだが、この「ポレポレ東中野」が今だ存在していることが素晴らしい。

映画館がのきなみ潰れていく中(今僕が住む藤沢には1軒もないよ。最後にイングロリアスバスターズを見て終わってしまった。)この小さな箱が話題作とは縁遠いドキュメンタリーやインディーズ映画ばかりをかけているというその矜恃に感服する。

実際にこの劇場で怪作「おそいひと」を見て、その音楽を担当したワールズエンドガルフレンドを知って、さらにそこから世界が広がっていったのだから。

大好きな小林政弘の作品を見たのもここだ。僕もたくさんの恩恵を受けている。ちなみに「ポレポレ」という言葉からは写真家である岩合光昭の奥さんが書いた「アフリカポレポレ」という本を思い出しますね。新潮文庫だけどまだ絶版になってないかな?これは大好きな本で、奥さんの視点も中に収められている写真も、村上龍の解説もみな素晴らしくて、ことあるごとに、お前も読め!と人にあげまくっていたな。そして本屋時代、文庫担当だったので、ひたすらプッシュしまくってた。実際かなり売ったけどね。

そんな様々な思い出の交錯する場所で福間健二の新作を見ることができる幸せ。その嬉しさを最大限に引き出すためにはやはり飲むしかあるまい!と、チケットを購入後そそくさと居酒屋にしけこむ。

映画が始まるまでに80分あるから丁度いいねとビールを飲む。刺身や板わさもつまむ。刺身のツマも食べちゃう。居酒屋のメニューに「大根おろし」と「刺身のつま」を加えてくれないか、両方とも50円で。そしてギアを上げる、少し強い酒に変えていく。赤ワインのジョッキに氷を入れて、グビグビ飲む。あんた、これはウェルチのブドウジュースじゃないんだからね!ゆっくり飲みなさい!と阿佐ヶ谷の鳥貴族で飲んでいた頃よく彼女に言われていたあれ。美味いのよやっぱり。安ワインも美味しく飲めちゃう。

そして詩集を開いてパラパラとめくる。「結婚入門」「青い家」の二冊を思いつくままに。そうしたら驚くことに、以前感嘆した箇所とは違う部分に心が反応する。前はそれほど気に留めなかったフレーズに唸る。酒を飲みながら本を読む習慣はあるが、よく考えたら酒を飲みながら詩集を開いたことはないのではないか。かつてmixibk1Amazonに本の感想を書いていたからそれはあるまい、と思ったが、それは感想を書くために開いたのであって、読み込む為ではなかったのだ。

だから驚いた。酔った頭でうわぁ!ってなった。前に良いと思った部分はそのままに、新しい「これいいなぁ」「かっこいいよな」「何でこのフレーズのあとにこんな言葉がくっつくの?やべぇ、室内なのに青空から風が落ちてきた」とか、どんどん増殖する好感にむせるばかり。結局は5杯ほど飲んで、さぁ劇場入り。

残念ながら席はいっぱいというわけではないけれど、点在している数人には奇妙な連帯感がわく。普段はそんなこと思わないけれど酔ってたからそう思うんだろうな。席の背もたれから見える頭が星のように見えたのか、「点呼する惑星」という平沢進のアルバムタイトルを思い出す。そして「星がスクリーンに吸い込まれていく」という言葉から何かお話が書けないかなぁとも思った。

「反省とか悩みはあるけれど、世界の感じ方を素直に出せた」という、上映後のトークイベントで言った福間健二の言葉に全てが表れている映画だった。

実は見ている最中、僕は悪い癖で、どうしても意味を探してしまっていて、作品とのチューニングを合わせるのが大変だった。途中で「もっと敏感になれ!」という言葉が降ってきて(劇中で誰かが言った台詞かも。いや酔ってたからか。)能動的に目を凝らし始めた時から、この映画に写る景色が立体的になり、人物には血が通い、死者に影がついたのだ。

詩人である福間健二がとらえた世界、彼がそのただ中に身を投じて感じたものは、一本のわかりやすい物語にはなりえなかった。だから写真が一枚ずつ置かれていくようなショットを並べ、ナレーションがストーリーのエンジンになり、人物のアップが多かったのだ。

そして「自主映画は地味っていうか跳ねてない。だからドラマをなぞるとつまらない。大げさに言えば発見したい。」という監督の言葉で全てがわかった。これは発見の旅なのだ。90分の、監督の日常に含まれた場所を辿る旅。ドキュメンタリー的なシーンを日常だとすれば、その場所から彼岸を眺めるひと夏の旅であること。

「三月のライオン」を想起させるあまりに印象的なサキのアップ。バスに乗った千景の、それまでの透明度とは打って変わった匂い立つ様な美しさをたたえた表情。燃えるような緑。まるでこの世に最初から存在していないかのような庄平の浮き出た肋骨と惚けた顔。僕もよく知る国分寺の駅前のショット。風の扉を開くようにこの世の時間軸をズラしてしまう、まり子の歌声とアングル。ゴダールばりの突然さで人と景色が死ぬ一瞬の静寂。招かれない部屋におじゃましてチビチビと酒をすすりながら、特に笑いもおこらずされる会話の居心地の悪そうなドキュメントタッチのシーンで突然に始まる詩の朗読。

一瞬雑だと思うがなぜか目が放せないシーンのあれこれ、並べられたスナップはもしかしたらシャッフル可能で、その余白部分までも用意されている映画なのではないかと思う。「君はどう感じたんだい?」。もしかしたら誤読の極みかも知れないが、それが僕の、この作品世界の感じ方ですよと言えば監督は喜んでくれるだろうか。

パンフレットによせられた詩人の井坂洋子の文章はため息が出るほど美しく的確で、そのままここにペーストしたいほど惚れ惚れするものでした。

そしてこの日記を書き終えた今聴こえてくる声はやはり「もっと敏感になれ!」という言葉なのだ。世界を見つめ、言葉を往復させるために。


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