「私はうまれなおしている」スーザン・ソンタグ

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「結婚生活では、欲望のいちいちが決定を前提とする」そんな文章に膝を打ちながらも、あまりにシリアスな本書から目を離せずに読み進める。買ってから数ヶ月、一息にではなく、少しづつ、それこそにじり寄るように読み進めながら思うのは、早熟な少女が大人になっていく過程の饒舌さである。

その言葉を読みながら、何てあなたは不自由なんだと思ってしまう。それほどまでに言葉に縛られ、また言葉の虜になり、あらゆる小説を、または哲学書を読み漁る少女時代のあなたは確実に何かに囚われている。

15歳のある日の記述。「反逆者たちの欠陥に盲目になることであり、幼少期のありようとは正反対のことども、そのすべてに痛いほど、全面的に、憧れること。それは激しさ、荒れ狂う熱情であり、ただちに自己卑下の洪水に流されて沈下する。それは、自己自身の僭越さを残酷に自覚すること・・・」

前後の文章を切って引用してるので、何がどうなのかわけがわからないとは思う。しかし15歳にしてこの言説だ。精神の闇に自ら斬り込んでいく記述はこの日だけではない。あまりにシリアスでかつ魅力的なダイブ。

下世話な記録も結婚生活の悩みも神についての考察も全て書いてある。詳細かつ肉体的存在感をもつこの日記は読む物の体力を奪うことだろう。だから僕も簡単には読み進められない。思考を強制させられる読書体験。けれど稲妻が落ちたように詩的なフレーズ出逢い、歓喜もする。例えばこんな。

「まだ手書きに愛着がある、子供っぽいけれど・・・指の内部で輝いている官能的な潜在力が自分にはある。それに思いを馳せる!」

何て素敵な文章だろう。アナイス・ニンの日記やロランバルトの「恋愛のディスクール」と同じ手ざわりがする。何度も読み返し、自分の今を確認するための書物。引用したい文章が山のようにある。最後に、長いけどまた引用を。

「オーガズムは焦点を絞る。私は書きたいと欲望する。オーガズムの到来は私の自我の救済ではなく、それ以上、自我の誕生。自我が発見できないうちは書けない。私がなれる種類の作家とは、唯一、自分を露呈する作家だ・・・書くことは自分を費やすこと、自分を賭けること。でもこれまでは、自分の名前すら好きになれなかった。書くためには、自分の名前が好きじゃなければダメ。作家は自分に恋している・・・そして、その邂逅とその暴力から自分の本を作り出す。」