藤谷治「我が異邦」


この作家の名前は知っていたけど今まで読んだことはなかった。しかし、たまたまツイッターで知った角田光代の書評が素晴らしかったので
読んでみた。帯には、自らをさらけ出して書いた新境地作品集とある。

さーて、どこまでさらしてるのかなぁ、などと余裕ぶっこきながら半身浴しつつ読み始めたのだが、ダラダラ汗の滴る中、1時間で読み終えた。しかもそうとう夢中になって。


内容(「BOOK」データベースより)
地下鉄に毒ガスが撤かれた1995年3月、わたしはアメリカへ発った。明るく巨大なアメリカで、私は孤独を満喫した。一生このままでいられるなら、どんなに幸福だろうとさえ思った。ただ、孤独であることの僥倖とは別に、そこには「女」が絶対的に欠けていた―。孤独を愛する男を描く表題作の他、「ふける」「日本私昔話よりじいさんと神託」を収録。

孤独は寂しい、しかしいつでも誰かに囲まれているというのも息が詰まる。ようはそのバランスってことでしょ?と表題作を読みながら思う。アメリカ転勤になった男の日常は、話し相手がいない環境ということで既に孤独が用意されている。仕事を終えて買い物をし、家に戻り、食事をし音楽を聞く。TVを見て眠くなれば眠り、翌日また仕事にいく。そんんな当たり前のことが淡々と記述されていく。文体は読みやすく、でも少しシニカルな口調。

孤独を愛する、そんな一人の時間に満足していた男だが、そんな時間の中、絶対的に欠けているものがあった・・・そうだ「女」という存在!!

しばらくはポルノビデオでお茶を濁す男(それでも数ヶ月もったのだ。)だったが、やがて女を買いに行く。それが習慣となり、ある女と仲良くなり、娼館の連中とも顔見知りになる。

孤独を愛した男も、やはり女と関係を持つことによって孤独から脱却していくのだよなぁと思いながら読んでいく。人と出会うとそこには状況が生まれ、会話が生まれる。会話は未来の出来事を手繰り寄せ、約束が計画を生み出し、ドラマをはらむ。娼婦エミイのカラッとした感じがいい。余計な描写のない事実だけをあっけらかんと話す感じ。さあどうなっていく?

男は女を媒介にして世界と関係を結ぶはず。孤独を脱却するには誰かと関係し、そこから世界を踏みしめていく動機を生み出さねばならない。そういうつもりで読み進めてきた。しかし違った。ちょっとしたきっかけで大きくドラマが動く場面もあるのだが、それも宙吊りになってしまう。ドラマは大きく動かない、というか消滅してしまう。

女は移動し、男もまた移動する。エミイの移動は地に足のついた生活を引きずっての移動であり。残された男の移動は孤独であった時と同じだ。どこにも所属したくない男の魂は枯れているのか。

続く2作目で男はひたすら移動する。逃げていく。すでに帰国しているので舞台は日本だ。その理由は語られず、とにかく移動し、観察し、心の中で文句を言い、性的な妄想を開陳し、結局は孤独である。また娼婦を買おうとし、ガキと知り合う。ドラマが生まれそうになるが、また宙吊りのまま終わる。

そしてラストの3作目。男は結婚している。妻との会話。肥えた体にダイエット、自転車通勤。男に生活がある。関わっている人間がいる。それなのに物語はストレートに進まない。幻想的な場面が突如現れ、またあっちの世界に引き込まれそうになる。世界に関与しないことへの憧憬がむくむくと湧き上がってきたのか?と思うが、それも突然に、サクッと終わる。今回はきちんと妻の元へ、生活がある家にたどり着く。

次々といろんな出来事が起きて目まぐるしく物語が進むというタイプの小説ではない。内面をほじくり返してネチネチもしくはゆらゆらと自分を反芻する小説でもない。

しいて言えば、迷いを感じる前にすでに流されているような、世界と手をつながないように強制的に移動させられているような不思議な小説だ。最後の小説では世界と手をつないでいるのだが、その過程は描かれない。ただフラフラしている男の話、というばそれまでだ。

ただ、男が感じたことについての共振は、男子なら覚えがあると思う。かなりの頻度でそれが記述されている。自己完結した妄想。性的な話題については、まいりました、同じこと思ったことありますよ、行動も含めてね、という感じだ。

自分を深く見つめ、掘り下げていればルサンチマン的なものがよりはっきりとわかるのだが、それもない。だから新しい自分を見つけることもない。

どこまでが作者の投影なのかわからないが、捉えどころのない不思議な感じ。だから本書の感想もうまくまとめられず、ここでドロップしてしまうのだ。
我が異邦


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